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長いようで短い日々(四十九日によせて) [日記]

ちょうど13年前、9月にはトリミング学校を卒業するというころ、私は白いトイプードルの子犬を探していた。
せっかく2年かけて習得した技術を忘れないために、また、ペット関係の仕事の可能性を探すため、自分の犬が必要だし、欲しいと思っていた。
ペットショップでの生体販売に抵抗のある私は、ネットでブリーダーを探して問い合わせたりしてみたけれど、なかなか見つからない。
トイプードルは茶系の色が流行っていて、クラシカルな白い子犬はあまり繁殖されていないんだな。。。とその時よくわかった。
仕方がないので、学校の先生にお手紙を書き、そこそこの血統の雌のトイプードルを探して欲しいとお願いした。
しばらく待つかと思ったけど、すぐに返事があり、ちょうど生まれている子犬がいて、学校にもう一人待っている生徒がいるから、近々一緒にブリーダーさんのところに行きましょうという話になった。
9月3日、東武東上線のふじみ野駅で待ち合わせて、プードルの犬舎としては有名なブリーダー宅へ向かい、2匹の子犬と対面。
どっちも涙やけのひどい、あまり美人な感じには見えない子犬だったけど、「こんなに小さいのか・・・」と正直戸惑った。
先生は、2匹を見比べ、前から待っていた生徒に毛吹きのいい方の子犬を渡し、そうでもない方の子犬を私に渡して「さぁ、運命の分かれ道だ」と言った。
お金を払い、持参していた小さなクレートに子犬を入れ、車の後部座席の下に乗せて自宅に向かう。
途中、心配になって車を停め、クレートを覗くと、さっき食べたドックフードを全部吐いていて、私に小さな尻尾を振ってくれた。
子犬の名前は「動物のお医者さん」という漫画に出てくるワンコの名前をいただいて「チョビ」にしようと、前々から決めていた。

家に着いて、準備していたサークルに入れたけど、ピーピー泣きっぱなし。
学校でしつけの勉強も少しはしたし、自分なりにちょっとは調べていて、最初から一緒に寝ちゃいけないとなっているし、さてどうしたものかと戸惑って、
あらかじめ調べておいたJAHA公認のドックトレーナーさんに電話をかけた。
トレーナーさんは私より10歳年下の女性で、「私のやり方は、家に犬が来たらすぐに呼んでください、なんです」と言った。
すぐに説明に来てもらい、即決でしつけのレッスンをお願いすることにした。
思っていたより早くチョビが家に来てしまったので、まだ学校の出席がある日にはペットシッターさんを頼んだ。


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B級トリマーの試験を無事に終え、学校の卒業式を間近に控えていた9月27日、自宅マンションの室内に雨が降った。
新築のマンションなのに、最上階の私の部屋には6年目から雨漏りがした。
最初の年ははっきりとはわからないくらいの量の水がストーブの上に落ちていた。
天井のクロスがちょこっとめくれるので、あら、雨漏りがあるのかしら?くらいに考えたけど、あまり真剣に考えてはいなかった。
とりあえず管理会社には連絡したように記憶しているけど。
次の年、天井から、筋になって雨が落ちてくるのを目撃してしまった。
その時はすぐに管理会社に連絡し、屋上の修繕をしてもらい、室内はしばらく様子を見て、天井のボードを切りかいて天井裏を確認し、渇いているのを確かめてから補修をした。
3度目はとめどない量の水が天井から降ってきた。 大きなポリバケツで水を受けて、すぐに管理会社に連絡をした。
翌日、管理会社と施工先の担当者と作業をする職人さんがやってきて室内を点検すると、天井のボードはカッターを入れただけで水の重みで崩落し、ただならぬ量の雨が侵入していたことがわかった。
とりあえず、濡れているボードはすべて落とし、又水が入って来ても床が濡れないよう、ビニールで養生された。それはまるで、駅構内の雨漏り処理みたいな、無残な姿だった。


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保証期間内だったから、もちろん無料で直すのだけれど、3回目となれば事態は深刻だ。 今までと同じ補修をしていたのでは絶対に直らない。毎回補修しているのにひどくなっているんだから。
知り合いの設計士さんに現場を見てもらい、対処の方法を相談した。
マンションは築8年にしては痛みが目立つし、屋上の防水もかなり痛んでいた。住宅紛争処理支援センターというところに相談するといいよと教えてもらい、連絡をとった。
何度も雨漏りの再発を繰り返す建物の屋根は共用部分だから、実際はマンションの住人全員の財産だ。
だけど、部屋が壊れ、辛い思いをしているのは私だけ。
理事会に動いてもらい、紛争処理支援センターに調査を依頼し、アフター責任者である施工先とも何度も話し合いが持たれた。
けれど、なかなか話は進展せず、すぐに冬がやって来た。


トレーナーさんには週に平均2回ほど来てもらっていただろうか、チョビのしつけはとても順調に進み、春になる前にトレーナーさんから「もう私の教えることはありません。」と言われた。
家庭犬として生きていくなら、この程度できれば大丈夫、というところまで小さな子犬は数か月でお行儀を覚えた。私も、マナーやいい子に育てる方法を教わった。
2回目のワクチンが終わる前に、私は勤め先にチョビを連れて通うようになった。
飼う前から「どこにでも連れていける子」にしたいと思っていたので、トレーナーさんには連れ歩くコツも伝授いただいた。
最初は道から電車を見せる。 次に改札口の人ごみを見せる。 次はバッグに入れて蓋は完全に閉めて、バスにひと区間乗ってみる。 バスを使うのは、バッグのなかで鳴かれた時すぐに降りられるから。
一度でもビビッて落ち着かない状態になるようなら、ひとつ前に戻って慣れさせてから先へ進むこと。
そして、次はバッグに入れて電車にひと区間だけ乗ってみる。 大丈夫なら、目的地まで行けるようになる。
最初、バッグの中で、酔ったようでフードを吐いていた。 でも、徐々に慣れて、一度もビビることなく、暴れることも、鳴くこともなく、一緒に電車で通勤できるようになった。

土日は、ビニール養生された自宅にいるのが辛くて、犬連れペンションに行ってみたり、冬山ハイキングに連れて行ったりした。
チョビは社交的で、会社のみんなに可愛がられた。 どこに連れて行っても物おじしない性格で、ドックカフェなども安心して連れていけた。
ただ、私とべったりくっついて育ったため、強い分離不安をもつ子になっていた。


毎日、家に戻って玄関のドアを開けると、真っ先に視界に飛び込んでくるのは、忌々しいビニールの養生。


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3月になり、紛争処理センターから紹介を受けた業者が屋上に水を張って漏れの個所を特定する検査をした。
はたして、夜になり、養生されたビニールに水の垂れる音が聞こえてきた。
それを聞いて私は半狂乱になり、アフターの担当者に電話で怒声を浴びせていた。「あんたがここで調査の成り行きを見守るべきでしょう!」と。
夜、とりあえずの荷物とチョビを連れて、練馬にある勤め先の社屋に逃げ込んだ。
調査が終わって、修繕が始まることが決まっても、もうその部屋に住み続ける気にはなれなかった。
でも、雨漏りのしたマンションがすぐに売れるなんて思えないと、とりあえず会社に頼みこんで、事務所の上にある空き部屋に引っ越しをすることにした。
共用部の修繕が終わり、内装の修理費用は見積もりを取ってお金で払ってもらい、それに自分で費用を足して、すべての部屋の壁紙を張り替えて売りに出した。
売りにかけて、3か月で買い手が見つかり、8月にはすべて手続きを終えて、手放すことができた。

壊れたのは、「家」だった。 家はただの箱。 雨漏りはしたけれど、仮補修はすぐにされたし、住めなくなったわけではなかった。
でも、「家さえあれば安心」とずっと思ってきた私には、その家が私に大きな不安をもたらすなんて晴天の霹靂だった。
修繕がすべて終わるまでの我が家は資産価値はゼロ。 一生懸命ローンを返済してきたのに、こんな不幸があっていいのか。
自分の価値観を替えなきゃ生きていられなかった。何があれば安心して生きて行けるのかわからなかった。 それが一番辛かった。


もう集合住宅はこりごりだと思い、でも首都圏では高くて家を建てるなんて無理だから、私は田舎物件を探し始めた。
いくつも見て回り、ネットで情報を集めて、そして見つけたのが追分の温水路近くにある140坪の土地だった。
周りの環境も、雰囲気も、ひとめ見て気に行った。
今の条例では別荘地は1000平米以下には分筆できないけど、その土地は条例施行前に分筆されていたから、値段も手の届く範囲だった。
設計士を探し、一度は契約解除も経験し、知り合のつてで松代の工務店にも見積もりを頼んだ。 工務店の担当者は「低予算だから、短期間で施工します」と言った。
工務店にとっては安い家だろう。予算は1200万だった。 でも、独り者の私にとってはすごい大金だ。
短期間施工=突貫工事=欠陥住宅。 そんな気がして頼む気にはなれなかった。
寒冷地の建物は水の管理が難しい。 常住するのならそれほど問題にならないけど、東京で仕事をしていたので来られるのは週末だけ。
水を凍らせない住宅にするにはそれなりの費用がかかった。 天然素材にもこだわりたかった。
たくさん譲歩して妥協しても、こんなに家って高いんだ。
妥協して無理して建てても、お金は無くなるし、後悔が残るだろう、そう思って家の建築をあきらめた。

冬に土地を購入してからしばらくは、週末ごとに軽井沢の建築がらみで時間を使ったり、キャンプへ行ったりしてチョビと出掛けていた。


秋が深まってきたころ寒くなったら今までみたいにキャンプはできないし、どうしよう、そう思っていた頃、たまたま小さなトラベルトレーラーをキャンカービルダーのHPで見つけた。
見に行って聞いてみると、私の乗っていたシビックでも牽けるとのこと。値段的にも手頃だったので買ってみることにした。
キャンカーのクラブに入って、チョビの形のステッカーをトレーラーの車体に張り付け、オフ会に行って仲間を作ったり、長期の休みには山のキャンプ場へ行ったりもした。

住んでいたのは相変わらず、勤務先の空き部屋。
本来なら早出をする社員が泊まるための予備部屋だったんだけど、私は不法占拠をし続けていた。
軽井沢の土地はホームセンターで売っていたミニログを立てて、町営水道を引いただけの簡素なキャンプ場になっていった。


練馬に住み始めて3年くらいすると、事業がうまくいかなくなって来た。
売り上げが激減し、どうにも資金繰りがつかない。 創業者である父に退職金を払ったけど、結局それを借入する形でなんとかしのいでいく状態。
社屋を建てた時の借金が多額に残っていたので、私は社屋を売却してほかの場所での再建を訴えたけど、一緒に働いていた弟には却下され、堂々巡りの日々が続いた。
父は体調を壊して、だんだん足が思うように動かないと言うようになった。
もともと夫婦仲の良くなかった両親で、別居を繰り返し、その当時は母は九州の別府温泉にマンションを借りていた。
しばらくは通って半別居状態だったのだが、そのうち父も別府に行ってそこを「終の棲家にする」と言い、中古のマンションを購入して移住してしまった。
父が去った会社で、意見の合わない弟と一緒に事業を続けることは不可能と判断し、私は会社を辞めることにした。
高校を卒業してすぐに就職した父の会社。 一度辞めてまた戻って来たけど、社会人としてのほとんどを過ごした私達の会社。
まさか辞めることになるなんて考えたこともなかった。 従業員じゃないんだから、辞める権利もないんだと思っていた。
でも、私がいなくなったところで、これと言って困ることもないくらい、事業内容は変わっていた。

軽井沢には家財道具を置く場所がないので、転居先を探した。


以前からメーリングリストで知り合いだった人が群馬の南牧村に住んでおり、空家をあっせんしてくれる人がいるよと教えてくれた。
行ってみて、2度目でなんとか住めそうな空家を見つけ、住民票は軽井沢に移し、荷物は南牧村の貸家へ移した。
貸家の家賃は15,000円。 その当時、私がトレーラーのために借りていた駐車場と同じ値段だった。
引っ越しは2008年の9月。 練馬の夏は気が狂いそうに暑かったけど、渓谷にある南牧村は静かで涼しく、疲れた心と体を癒すにはとてもよい場所だった。
チョビは人が大好きな犬だったから、会社を出て、社員の人たちと会えなくなってしまうのが不憫で仕方なかった。
いつまでも、みんなに可愛がられて、楽しい毎日をおくりたかっただろうに、私の都合で、山奥の寂しい場所に引っ越すことになって、かわいそうなことをしたと思う。


でも、南牧村にはすぐ近くにチワワと一緒に暮らす移住者女性がいた。 その人はご主人と一緒に移住してきたけど、ご主人は突然の病で他界してしまい、山奥に取り残されてしまった人だった。
出掛けない日はほとんどその女性のお宅におじゃましてお茶を飲んだ。 チョビも楽しそうに、そのお宅で遊んでいた。
しばらく精神科通いをしていたけれど、翌年の春には心身ともに回復し、あちこちに旅行に出かけた。
念願だった北海道も、トレーラーを牽っぱって走り回った。
両親のいる別府へも何度か出かけた。 両親は私に近くへ越してくるよう願っているようだった。
トレーラーを購入して3年ちょっと、シビックが足回りに悲鳴をあげ始めた。 そりゃあいくら小さいトレーラーとはいえ、1500ccの普通乗用車であんなものを引っ張りまわせば異音も出るようになる。
トレーラー購入時点ですでに6年くらい乗っていたから、最初から乗り潰すのはわかっていたし。
車検の前に車を買い替えることにして、トレーラーは売却した。


次に選んだのはミニバンの「ノア」で、チョビとの車中泊がしやすいよう、2列シートを選択し、後ろはフルフラットにして常設ベッドに出来るものにした
毎年G・Wは住んでいる地区のお祭りがあり、それを手伝うことになっていたので、それが終わってすぐ、新しい車で四国を旅行した。
1週間ほど観光して、山は石鎚山に登って、四国西端の佐多岬から両親の住む別府へ行った。
車も買い換えたことだし、両親が長崎あたりに旅行に行きたいというので、じゃあさっそく予定を立てようとガイドブックを買いこんで、明日みんなで見ようねと言って就寝した。
翌明け方、南牧村の友人から電話がかかり、家が火事で今、まさに燃えていると連絡があった。
南牧村は年寄りばかりだし、古い木造の家が多いから、比較的火事は多かった。 だからボヤ程度のものだろうと思っていた。
しかし、午前中には富岡警察の人から電話があり、本人に間違いがないかの確認がされ、家はほとんど何もないくらい焼け、全焼であると教えられた。
消失日は、2010年の5月19日。
南牧に戻ると、家の後片付けが進んでおり、火元だった向かいの家と、上の家とウチの3件が跡形もなくなっており、下の家は軒の接していた古い部分が焼失していたが幸い後から立てたモルタル部分で火が止まり、母屋は残っている状態だった。
火元の家には母と同じ年の老女がひとりで住んでいた。 近所での評判はあまりよくなかったけど、よそ者の私によく声をかけてくれ、お菓子や惣菜なんかも持ってきてくれた。
不思議と怒りはわいてこなかった。 ただ、とてもがっかりして、とうとう月15,000円の家賃も払う必要がなくなったんだなと思った。
近所の人達は、私が旅行中でホントに良かったと言ってくれた。
出火は明け方で、地形的に逃げ場はなかったから、家にいたら命はなかっただろうと。
5月の南牧はそれはきれいで、これからが1年で一番いい季節なのにと思うと悲しかったけれど、、軽井沢の小屋もあるし、しばらくのんびり旅行でもして、また近くで空家を探せばいいやと思っていた。
でもその矢先に別府の母から電話があり、がんで手術をすることになったと知らされた。
不安そうな母の声、別府の家にはまだ若い柴犬もいたし、父はどうにも頼りにならない。
癌であれば、手術の前後に抗がん剤を使うかもしれない。 放ってはおけないので、南牧での後始末や住民登録地でしかできない手続きをすませて、別府へ向かった。

幸い母の癌はあまり悪性ではなかったようで、片方の腎臓と尿管を無事に摘出。その夏は慣れない別府で、2匹の犬の世話と母の病院への往復で私の日々は過ぎていった。
母の癌は秋になってから膀胱に再発をしたけれど、内視鏡で処置してからはもう再発はしなかった。


大分でもトレーラーで知り合ったマイミク(mixi友達)さんや山で知り合った人など、それなりに友達はできた。
でも、やっぱり馴染めない。 まず、言葉が違う。 九州ってあんなに小さい島なのに、県が違うと言葉が全然違う。
お休みにお出かけした場所の話なんか聞いてもチンプンカンプン。
どうしても、どうしても、関東に、長野に、帰りたかった。


冬の軽井沢には戻っても住めないから、春になるのを待っていた。
3月になり、そろそろ戻れるかな・・・と思ったとき、東日本大震災が起きた。
知り合いから、しばらく関東には近づかない方がいいと言われた。 九州は全く被害を受けなかったし、安全な所にいられるなら、今しばらく様子を見るようにと。

もう一度北海道をゆっくり旅行したかったので、6月から8月にかけて、うんざりするほどのんびりと、北海道を回った。
一度別府へ帰って、軽井沢にコンテナハウスを借りて設置し、別府で増えた荷物を運んできた。
もう10月になっていて、急いでちゃんとした家を探さなくてはいけなかったので、友達を頼って、中古住宅をさがしたのだが、やはり私の予算では、ボロボロの古家しか買えないのが現実だった。
軽井沢は11月になると、ミニログの中で結露が発生した。 物がない時は良かったけど、ベッドなんか置いたばかりに、空気のよどむ場所ができ、マットや布団もびっしょりになった。
のんびりしてはいられなくなり、志木の友達のつてで、保証人もいらないような古いアパートを借りて住むことにした。
駐車場を借りに行ったとき、不動産屋の女主人に「あら、あなた、ひとりなの?結婚すればいいのに~」と言われ、そういえばそうか・・・と思い、結婚相談所に登録して婚活をしてみた。
もし、私とチョビを養ってくれるような男性が見つかれば、万事解決!と思ったのだが、丸1年専念したにもかかわらず、私は独身のままだった。


志木に住んでいたのはちょうど1年半くらいだけど、今思うとあの頃が一番穏やかで幸せな日々だった。
婚活でお見合いに行く時はチョビをバッグに隠して連れ歩いた。
蓄えを食いつぶしながらの、経済的には不安な日々ではあったけど、働くストレスもなく、アパートがボロで住み心地がイマイチだったから、毎日よく外に散歩に出かけた。
のんびり料理をして、誰にも邪魔されずに、チョビと楽しい毎日。 近くに友達もいたので、ちょくちょく一緒にご飯を食べた。
こんなに穏やかな日々が来るなんて、それまでは想像したことがなかった。


志木に住んで1年ちょっと経ったころ、父から「とうとう障がい者手帳をもらうことになった」と電話がかかってきた。
聞くと、医者にパーキンソン病だと診断されたという。 パーキンソンなら、障がい者手帳じゃなくて特定疾患の受給者証だろう。
年寄りは何が何だかわかっていないようなので、取り急ぎ九州へ行って、父の主治医に直接話を聞いた。
すると、パーキンソン病に間違いはなく、認知症もでてますよ。と言われた。
え?認知症?? ボケてきてるってこと? これには困惑した。
母とは別居状態で、どうやら車も購入して乗りまわしているらしい。事故でも起こされたら大変だ。どうにかしなくては、放ってはおけない。
母は父だけを埼玉に引き取ってほしいようだったが、父だけ来られても私たちが直接面倒を見るのは無理だ。
結局弟と相談し、両親揃って、弟の住む、もともと私たちが住んでいた所沢に、戻ってきてもらうことにした。
両親には、段差のないURの2LDKを借りることにし、私はそこへ歩いて行ける範囲のペット可賃貸物件を借りた。
最初は一緒に住める物件を探したのだが、3人それぞれの個室、段差のない作りで、車が置けて、ペットも可という物件はまず存在しなかった。

7月になるのを待って両親を引っ越しさせたのだが、父の認知症は、環境が変わった途端に一気に進んだ。
自分の要求が通らず、暴力を振るい、狂った目で私たちを見た。
あぁ、頭が、脳が壊れるって、こういうことなのかと思った。
小平の国立病院で検査を予約していたのだが、医者の口から出たのは「施設を探してください」だった。
これから検査をして、治療を始めるものだと思っていた私たちは、「え?何の施設?」と思った。
介護認定を申請し、父には宿泊ができるデイサービスをとりあえず利用してもらうことにした。
母はがんの手術後、足にリンパ浮腫を発症し、こちらも歩行が危うくなっていたので、リハビリを兼ねたデイサービスの利用を決めた。
市からおりた介護認定は、父は要介護4。母は要支援2だった。
いずれ、自分の事は全くできなくなる父のために、市内の特別養護老人ホームすべてに申し込みをした。
体は確かに父だった。だけど、心はどこかに行ってしまったかのようで、普通に会話もできない。
不思議なことにチョビはボケてからの父をまったく相手にしなかった。
会社にいた頃はけっこう可愛がってもらっていたのに、父に名前を呼ばれても無視するのだ。
忘れたわけではなかっただろうに、何故だったんだろう? 父の心がどこかに行ってしまったことが、チョビにはわかっていたんだろうか。


在宅介護を続けて1年4か月、申し込みをしていた特養の1件から、空きがでたので入所できると連絡が入った。
11月の初旬、父は所沢のはずれの小規模な特別養護老人ホームに入所した。
最初はホテルにでも泊まっているつもりだったようで、私たちが行くと「さぁ、帰るぞ」と立ち上がり、そのたび弟に「今はここがお父さんの家なんだよ」と説得されていた。
何か、よくわけがわかってないようで、父はだんだんと無口になり、おとなしくなり、反応がなくなっていった。
入所して11か月目、高熱がでたということで病院に入院することになった。
原因は誤嚥性の肺炎だった。 レントゲンを撮ると、すでに片方の肺は真っ白で機能しておらず、前にも何回か肺炎を起こしているはずだと医師は言った。
病院では手厚い介護・看病を受けたが、もともとが治らない病気を持っていて、さらに食物を口から摂取させればまた肺に入ってしまうということで、約1か月を点滴につながれたまますごし、
点滴針を受け付けなくなったその日の夜、父は母に看取られて亡くなった。


私は所沢へ帰ってきてから、色々なアルバイトをするようになっていた。
それまでは、分離不安のチョビを家に置いて仕事に出ることには抵抗があったのだが、所沢では母に預かってもらうことができるようになったので安心だった。
いきなり長時間の仕事には自信もなかったので、短時間のコンビニや、期間の決まっている、お中元・お歳暮・税務署の確定申告の手伝い、などをこなしながら、日々をしのいだ。
父が特養に入所して、母も一人暮らしになったので、一緒に住まないかと誘い、チョビと3人、同じ駅の反対側にマンションを借りて住むことにした。
チョビは母によく懐いていた。 北側が私達の寝室だったのだが、朝になるとチョビはドアをカリカリして開けてくれるよう催促した。
居間に行ってトイレを済ませると、今度は南側の母の寝室を訪ねて挨拶をした。
もともと人といるのが大好きな子だったので、やっと家族が増えて安心できたのだろうと思う。


チョビは9歳のころから、心臓に雑音が出ると言われるようになり、行きつけの病院で「僧房弁閉鎖不全症」という心臓の病気を発症していると言われた。
病気の進行を遅くするための飲み薬が処方され、興奮させたり、激しい運動をさせないようにとアドバイスされた。
母との同居はあまりうまくいかなかった。 お互いに気楽なひとり暮らしを知っていたし、女ふたりがひとつの台所を共有するのはなかなかにストレスがあった。
同居を始めて1年もすると、母はここを出て一人暮らしをしたいと言いだした。 弟は反対した。 高齢の母をひとりで住まわせるよりは、なにかと我慢しなくてはいけないことがあっても
身内である私と同居していたほうが安心だと言った。 一度は説得されて引き下がった母も、数か月後には「やっぱり、どうしても、我慢してまで一緒に暮らしたくない」と言いだした。
私は、チョビは「ばぁば」と一緒に住みたいと思っているのがわかっていたから、「私はチョビのために、我慢してでも一緒に住みたい」と言ったのだが、2016年の6月始めに母は近くの団地に引っ越していった。


再びチョビと私だけになり、2LDK+Sの住居は家賃もかさむし、チョビの病院は相変わらず前に住んでいた志木だったので、これから通院の回数が増えるかもしれないと志木の周辺で住める物件を探したのだが、
志木は所沢より家賃相場が高い。 月に1万円くらい安く出来ても、引っ越し代その他を考えるとあまり得にはならない。 住まいが変われば、慣れるまで時間がかかるし、また仕事に出ることはさらに先になるだろうと思った。
とりあえず今の住居はチョビにとっても安心できる場所だし、更新は来年の2月だから、それまでゆっくり考えればいいやと思っていた時、近所で新装オープンするホームセンターの求人チラシがポスティングされた。
最初はネットで応募だし、一斉にたくさんの人を取るので働きだしても気楽かなと、あまり深く考えずに応募したら、採用になってしまった。
研修は10月から始まり、賃貸契約は更新することにして、私は通年で働き始めた。 働くといっても短時間のパートで、契約は週20時間未満。
高齢になり、寝ている時間の増えていたチョビも、私が出かけることがわかるとゲージに入っておやつを催促し、後追いをしなくなっていた。


所沢にきてからは、両親のことや、チョビの病気のこともあったし、季節の仕事が忙しいとその間は疲れてしまって遊びに行く元気が出ない。
では季節のバイトの合間はというと、やっぱりのんびりしずぎてしまい、遊びにいくことは減っていた。
休みは定期的に、時間に制限があってこそ楽しめるものなのかもしれない。
ホームセンターの採用が決まってから、説明会・契約、と1週間に1回しか行く必要がない時があり、その限られた日数に東北へ2度出かけた。 安達太良山、八甲田山、栗駒山、岩木山、チョビをリュックに入れて登った。


ノアでの車中泊が窮屈に感じるようになっていた。
私もそれなりに歳をとって、狭い車中で過ごすのは疲れが取れない。 チョビには朝晩の薬が必要で、それにはヨーグルトを使っていたので、いつも氷を入れたポットを持ち歩いてその中にヨーグルトやレトルトのフードを入れていた。
2月の幕張でのキャンカーショーのHPをたまたま見ると、今回は事前にネットでチケットを申し込むと人は無料で入れる(ワンコは別に500円かかるけど)、何気なしに見ていると、とても気に行ったレイアウトのバンコンを見つけた。
さっそく出かけて、買うことにした。 父が残してくれたお金があったし、この車があれば、冬も寒さを気にせず出かけられる。 荷物も載せっぱなしにできて、冷蔵庫も電子レンジもテレビもあるし、山に登らなくてもチョビとのんびり旅行ができると思ったから。
しかし、人気のバンコンは納期が8か月かかると言われてビックリ。 納車は10月。 オーダーで作るので、キャンセルはできないと言う。 「この子が死んじゃったら要らないんですけどね~」なんて冗談を言いながらも契約した。


3月の30日、チョビのトリミングをしていると、母から電話があり、午後から来るという、別居してから、私が母の住居を訪ねたことは一度しかなかったけれど、母は何かと用事を作っては訪ねてきた。
その日も来るのを待っていて、なかなか来ないのでちょっとイライラしていた。 インターフォンがなって、私は玄関のドアをあけ、ドアストッパーをかけて、トイレに入った。
その間に母がエレベーターから降りてきて、チョビは母に気が付いて、大喜びしてダッシュで走った。 そして家に入ってきて、いきなりぱったりと倒れた。
驚いて抱き上げたらぐったりしていて、でもすぐに元どりに動きだした。 そのすぐ後、母が散歩に連れて行ったが、もう怖くて連れ歩けないと言ってすぐに戻って来た。 聞くと、他の犬と匂いを嗅ぎ合って興奮したようで
離れてすぐ、またパッタリと失神したそうだ。
翌日、なんだか様子が変なので、病院へ連れて行くと肺水腫を起こしていた。 その時は軽度だったから、注射をして、飲み薬にも利尿剤を入れたものが処方された。
4月の上旬は長期の休みを取っていたので、能登半島を回った。 チョビは特に変わった様子はなかった。
4月17日、いままで3ケ月に一度、定期的に受けてきたエコー検査をしてもらった。
心臓の病気はステージがあがり、すでに心肥大も始まっているとのこと。 3月の失神発作の時、心臓の弁を支える筋がいくつか切れたことが原因でしょうと言われた。
数日後、チョビは自分から食べ物を口にしなくなった。 私はパートの仕事をやめ、チョビの看護に専念することにした。
その後、亡くなるまで、毎日チョビの様子を観察し、強制的に食べさせ、薬を飲ませ、日記をつけ、祈るような気持ちで見守った。
願いはかなわず、13歳の誕生日さえ、生きて迎えることはできなかった。
そういえば、寒くなった頃、何故かベッドでおねしょをするようになった。病院で検査をしたけれど、異常は見つからなかった。
図書館に行く時(買いものなどもいつもバッグに入れて連れ歩いていたから)周りが静かすぎるせいでチョビの咳が聞こえてしまい、焦ったりしていた。
散歩でもあまり歩かなくなったのは歳のせいだと思っていたし、寝ている時間が増えるのも12歳ともなれば普通だと思っていた。
でも、予兆はあったんだ。 心臓の病気も少しずつ進んでいたんだ。 油断しちゃいけなかったんだ。「興奮させちゃだめですよ」って医者に言われていたのに。
あの日、母が来るのがわかっていたんだから、ドアなんか開けずに、トイレなんか我慢して、抱いていてやれば、走ることもなく、発作も起こさず、病気が急に進むこともなく、今も生きていただろうに。
そう思うと、今でも後悔してもしきれない気持ちになる。
あれさえなければ、あれさえなければ、まだ、一緒にいられただろうに。 一緒に誕生日を祝って、これから来る新しいキャンピングカーで出かけられただろうに。


もっと一緒にいたかった。 長いようで短い日々、たくさん一緒にいたはずなのに、まだまだ足りない。

前に、友達に、チョビが死んだら私は冬山を本気でやるんだ、なんて言っていた。 冬山=遭難死なんてイメージで、つまりもう生きていてもしょうがないから冬山に行くんだ、なんて。
でも、今チョビのお骨を見て思う。 チョビはここにいる。 置いてどっかに消えちゃうなんて、できない。
私が死んだら、私とチョビのお骨を一緒にしてもらって、粉にして散骨して欲しい。 文字通り、死んでも一緒にいたいから。
でも、これは自分じゃできないから、誰か信頼できる人を探して頼まなくちゃいけないな。


13年前、チョビが私のところにやってきて、ひと月もたたずに、部屋に雨が降り、その4年後には職を失った。
家もある、仕事もある、と思って迎えた子犬だった。 安泰な暮らしができると思っていた。 けれど、先のことってホントにわからないんだ。
まるで、「あなたの人生にはこれから大変なことがたくさん起こります。だからこの子を授けますよ」とでも言われたように、次々と色々なことがおこった。
心を病み、泣き叫ぶ私の横で心細げに震えていたチョビ。 楽しそうに、一緒に山を歩いてくれたチョビ。 月に一度はトリミングをして、ふかふかになった体はとても気持ちよかったね。
チョビが食べたり、飲んだり、眠ったり、遊んだり、排せつしたり、それらすべてがとても愛しかった。
通年の仕事につけて、やっと安定した生活を手に入れられたと思っていた、なのに、それを待っていたように逝ってしまった。


亡くしてみて、こんなに支えられていたと気がついた。 チョビの小さな体は、私にとって、とても大きな存在だった。

今日、8月10日はチョビの四十九日だ。それが過ぎるとすぐにチョビの新盆がやってくる。人じゃないのに、お墓にいれるわけでもないのに、なんとなくそういう区切りがないと落ち着けない。
チョビがいなくなったこの部屋にも、町にも、思い出がいっぱいありすぎてちょっと辛い。
なので、隣町の古い団地に引っ越すことにした。 今度のところはペット不可だけど、次にまた犬と暮らせる見通しは立たないから当面はそれでいいよね。


引っ越しをして、一段落したころには、チョビと出会って丸13年の記念日が来る。

チョビがいなくなって、心にぽっかりと開いてしまった穴は、どうやってふさげばいいんだろう?
時間が解決してくれる・・・・、そう信じて、また新しい夢に向かって生きていかなきゃと思う。

可愛いチョビ、私のところへ来てくれて、私にすべてを預けてくれて、本当にありがとう。
チョビと一緒にいることは楽しいことばかりじゃなくて、不自由なこともあったし、大変なこともあったし、とっても悲しいこともあったけど、チョビを飼わなければよかった、出会わなければよかったなんて思ったことは一度もなかったよ。
いつか虹の橋のたもとで再開できるだろうか。
もしそれが本当なら、1日でも早くその日が来たらいいなと思う。


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